掲げて見せた
翌朝、ほとんど眠ることもないまま、つぐみは高原に着いた。これから働くことになる店はバス停からすぐの所にあった。店に入り店長に挨拶すると、すぐに寮に案内された。そこには寮の番人だという白髪の老人が入り口付近の広間でひとりキャンバスを広げて絵を描いていた。
店の店長は、「この人が寮の管理人、わからないことがあったら何でもこの人に聞いて」と告げると、足早に目の前のレストランへと戻っていった。
「こんにちは!お嬢さん。レストラン天空へようこそ!」老人の声は野太く、荒々しいけれど、不思議な魅力があった。
「はじめまして、わたし、つぐみって言います。竹下・・・ちがいました。神坂、つぐみです。」
「ふははは、苗字を間違える人っていうのは二種類ある。結婚したばかりの人、それから離婚したばかりの人だ。そして結婚したての人がこんなさびれた片田舎の洋食店へ住み込みのアルバイトで来たりはしないもんじゃ。ふはははは。お嬢さん、きっと辛いことが、沢山あったのだろうね。この後も、ひょっとしたら思い出して辛くなる日があるかもしれない。そんな時は遠慮なく、このアトリエにおいで、その時はわしがとっておきの、カフェオレを淹れてあげよう。」そう言うと老人は薄汚い年期の入ったマグカップをつぐみへ掲げて見せた。
「ありがとう・・・」
ここへ来てよかったのだ。
つぐみは久しぶりに、自分が微笑んでいることに気づいた。
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