泣き言やぼやきやや
私は最近「愛読書は?」と聞かれて「サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』です」とためらわずに答えてしまうのが自分でも不思議でしようがない。もちろん「ライ麦畑でつかまえて」を読んだときには、そのみずみずしさに、ゆきずりのやさしさに出会った思いがして嬉《うれ》しくてならなかった
。しかし、サルトルやニーチェでも読んでるというのがはばかられ、結局必死でひねくれたあげく「大《だい》菩《ぼ》薩《さつ》峠《とうげ》」を愛読書と決めていた時期には、こんなにあからさまに本音を言いたい放題にした、全篇男の泣き言やぼやきややつ当りの甘ったるい感傷を、まさか口に出して〓“好きだ〓”と人に言うなど考えられなかった。
これは、「ライ麦畑でつかまえて」を好きだと言っても私が何のはじらいも感じなくなったのか、それとも時代がそうなったのだろうか。
長い間私は、自分がやっている演劇などはんぱもののやるものだとのひけめ意識をもっていた。だからどんなに誘われても実家のある福岡で演劇公演をしたこともなければ、出版した本を田舎に送ったこともなかった。父は私の顔を見るたびに、「いつまで水商売やってるんだ」と嘆き、親《しん》戚《せき》の連中からも私は不浄の金で暮すやくざを見るようにそっぽを向かれた。兄の子供たちにおもちゃを買っていくにも、高価なものをやればうさん臭い目で見られ、遠慮して安手のものにすると「派手にやっててこの程度か」とイヤミを言われ続ける。たまにテレビに出てアップに撮られようものならすぐ電話がかかってきて、「隅《すみ》っこにいろ、恥さらしが!」と怒鳴りつけられた。普通こういう親子関係では陰でこっそり母がとりなし、父親が本を読んだり新聞の切抜きをしたりしているのが図式なのだが、私の家の場合は母も嘆き、私のために喫茶店を開く準備をするほどで、なおさらタチが悪かった。考えてみれば、この不肖の息子であるというひけめと「一族から恥かきが出た」という意識が私には芝居をつくるエネルギーになっているのだろう。
最近は、若い女の子からサイン帳出されれば「俺《おれ》は芸術家だ!」と蹴《け》散らしていた日々が嘘のようで、求められればテレることなくすらすらペンを走らせ、「先生」と呼ばれなければ返事もしたくなくなっている。NHKや朝日新聞などともおなじみさんで、ホイホイ仕事引き受けてはこまめにビデオに撮ったり、切抜きにして田舎に送っている。
しかしこちらの気のゆるみはすぐに客にさとられるのか、先日は芝居の最中舞台を突っ切ってトイレに行くアベックまで現われた。小さな劇場で込んでいたためなのだが、他の客も騒ぎもしない。たしかに劇場は説教を聞く場所ではなくデートの場所にしてくれとか、芝居は臨場感だ、舞台と客席の一体化だと言い続けてきたのは私だ。しかし、それにしても最近の客は本当にまっさらで、ドリフターズや漫才を見に来るのと同じに楽しんでは帰って行く。十数年前、私が芝居を始めた頃の観客は、空疎な日常を埋めるために悪場所へと足を運ぶという内的な必然性を持ってきていたように思う。そして、正業を持てないひかれものの〓“業〓”としか言えないエネルギーで、演ずる役者を支え、一緒に育っていこうとの共犯幻想があった。
劇場はもはや悪場所ではなく、河原《かわら》乞《こ》食《じき》もいない。私にしても、〓“不肖の息子〓”としてのエネルギーをかりたててくれた父も今はいない。流行のマル優探しで銀行と郵便局を使い分けようと孤独な日常に流されそうになる今、自分自身に危機感を植えつけ、新しい〓“ひけめ〓”をつくって突き進んでいこうと心を新たにする今日この頃である。
ヒーローの条件
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