2016年08月15日

に燃え上がった

に燃え上がった
僕は、どうもノー天気に育っているのか、天真爛漫を絵にかいたような子供で、中学三年になっても、勉強などはまともにしたことがなかった。僕の馬鹿さ加減を証明するエピソードには事欠かない。
僕が中学三年になると、体調を崩した母が仕事を辞め、家に入った。いままでは野放図なままだったが、これからは母の監視下に入る。
中学三年の二学期の成績は、高校受験の内申書に記載される大事なものだったが、僕はそんなことお構いなしに遊び呆けていた。ある日、僕は母に、呼び止められた。
「お前、毎日、お昼過ぎには帰ってきて遊びに行くけれど、学校はどうしたの」
「うん、心配しなくていいよ。試験なんだ。だから、学校は半日で終わり」
「試験だったら、勉強しなくてはいけないでしょう」
「うん、大丈夫。昨日もう、試験は終わったから」
あまりにも無邪気に僕が答えたものだから、母も二の句が継げず黙ってしまった。母が嘆いたのは言うまでもない。僕の処遇はその夜の家族会議の議題になった。
当時、僕は教師が手をもてあますような劣等生グループの一員だった。その一群には、本当に無邪気に遊び呆けている連中や何かあるとすぐ暴力沙汰を起こす連中が混在していた。僕自身はといえば、学校の成績は日頃の素行が影響してクラスでも真ん中くらいだったが、純粋に学力だけがはかられる全国規模のアチーブメントテストでは、校内で三番ぐらいをらくらく取っていた。担任の先生は、自分の管理の枠からはみ出した生徒として露骨にいやな顔をした。
妙なことに、僕は番長には好かれていて、ときどきガラの悪い生徒に因縁をつけられると、番長がそいつにきっちりと落とし前をつけてくれる仕組みになっていた。それをいいことに僕はますます無邪気を絵に描いたような野放図な少年になっていったのである。

あるとき、あまりにも無自覚に生きている僕に、兄が怒鳴ったことがある。
「お前は、そういう生き方をして、自己嫌悪に陥らないのか」
兄と僕は父が違う。兄は母の苦労と母を困らせる新しい父を見ながら、我が家の辛酸を、少年時代に嘗めつくしているのだ。兄は、毎日、家族への愛憎と自己嫌悪のなかで葛藤しながら生きてきたのだろう。その兄からすれば、僕の極楽トンボ的いい加減さは許せないものがあったのではないか。
ところが、僕は、険悪な場の空気も読めず、
「じこけんおって、なあに」
と聞き返したのだ。その無自覚なところが兄の怒りに輪をかけた。
「お前は自己嫌悪もわからないのか」
そして、滔々と兄に「自己嫌悪」の説明をさせた後に吐いた僕の一言に、兄の怒りはさらに燃え上がった。
「自己嫌悪はたぶんないと思う」

そんな僕が食う飯も忘れて考え悩んだのが、なぜ人は人を愛せないのかという問題だ。
僕は自分が40点の人間だと自覚している。でも自分を愛せるのだ。なぜならば40点の僕をすべて知っているからだ。人が評価しない60点の減点分も、僕の中では正当なものであって、それを理解されない苦しみはあるにしても、僕自身がそういう自分を理解している以上、自己嫌悪に陥るべくもない。その部分を人は知らないから、平気で60点を減点しているだけなのだ。人はそれぞれ、みんなそうではないのか。結局、人を愛せないのは、その人のそういう内なる部分を知らないからなのだ。これが1つめの結論。

同じカテゴリー(lieroyu)の記事画像
途端に生々しく
遺族などへの謝罪
羅列を見ていた
同じカテゴリー(lieroyu)の記事
 途端に生々しく (2016-03-23 18:58)
 遺族などへの謝罪 (2014-07-31 17:20)
 羅列を見ていた (2014-07-08 16:39)
Posted by ゃぬのね at 16:35│Comments(0)lieroyu
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。